マスコミが報道しない真実

マスコミの言う「報道の自由」は、「報道しない自由」でもある。その報道されない真実とは…

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教科書から消えた偉人 (中江藤樹) 【教育】

中江藤樹(なかえとうじゅ)

江戸時代初期の儒学者で、誰にも親切に分かりやすく、人間の正しい生きかたを説き続けた日本陽明学の開祖。戦前の教育現場において、中江藤樹は有名な偉人であった。なぜこれほどの人物を戦後の教育で紹介しないのか、私は不思議に思っていた。教育に政治的イデオロギーを持ち込む人々から見れば、道徳(修身)教育は思想・信条の自由に反するのだそうだ。

藤樹曰く
「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす。」
つまり、本来の学問とは知識を蓄えることでは無く、利欲にとわられず正しく生き、行動する為の方向づけを学ぶことだと説いている。

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中江藤樹(1608~1648)



次のお話は江戸時代の初め、今から400年くらい前に近江国(今の滋賀県)で実際にあった藤樹の教えを代表するお話です。

【馬子の正直】
近江国に馬子の又左衞門という人がいました。馬に人や荷物をのせて運ぶ仕事をする人を馬子と言いました。ある日、馬子の又左衞門は京都へ向かう飛脚を馬に乗せました。当時、手紙などを遠くへ届ける仕事をする人を飛脚といいました。馬子の又左衞門は飛脚を終えて家にもどり、馬を洗おうと鞍を取り外しました。そうしたら、さいふのような袋が出てきました。その中味を改めると、なんと200両もの大金が入っているのでした。驚いた馬子は,「これはもしかしたら、さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは,あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思いました。そして、ふたたび馬子は日暮れの道を、飛脚の泊まっている宿まで、30キロの道のりを走っていったのです。

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飛脚を乗せて馬を引く、馬子の又左衞門

いっぽう,飛脚はというと、宿で旅の疲れをいやそうとしたところ、大金の入った袋が手元にないことにようやく気づきました。そして、必死であたりを捜したものの、どこにも見つかりませんでした。主君に申し開きするには、ただ腹を切るしかなかった。遺書をしたため終わった真夜中に、旅館の戸口を激しくたたく物音がした。「人夫のなりをした男が会いたいと言っています」という旅館の人の声とともに現われたのは、なんと昼の馬子であった。そして,馬子は200両の入った袋をそっくりそのまま返してあげました。飛脚は、「この金子は藩の公金で,京の屋敷へ送り届けるためのものです。もしも,この金子200両が見つからなかったときは、自分は死刑になったでしょう。親兄弟までも重い罪になるところでした」と、涙を流しながら話しました。

そこで飛脚は、荷物の中より財布を取り出し、とりあえずのお礼として馬子に15両を差し上げようとしました。
しかし、馬子は一向にそれを受け取ろうとはしませんでした。馬子は「そなたの金を、そなたに返したただけなのに,なんでお礼などいりましょうや」と言うばかりでした。しかし,飛脚はお礼をしなければ気が済みませんでした。そこで、飛脚は15両を10両に減らしました。それでも馬子の又左衞門は受け取りません。さらに5両、3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが、それも受け取ろうとはしませんでした。しかし、困りはてた飛脚の顔を見かねて、ようやく馬子は「それじゃ、ここまで歩いてきた駄賃として200文だけは頂戴いたしましょう」と言いました。

200文を受け取った馬子は、その金で酒を買ってきました。そして、宿の人たちと楽しそうに一緒に酒を飲み交わし始めました。酒もなくなり、馬子がほろ酔い機嫌で帰ろうとしました。その時、飛脚は感激のあまり馬子に聞きました。「あなたはどのような方ですか」と問うたのです。馬子は,次のように答えました。「自分は名もない馬子に過ぎません。ただ,自分の家の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあって,この村に住んでおられる中江藤樹という先生が,毎晩のようにお話をしてくださり、自分も時々は聞きにいくのです。先生は、親には孝を尽くすこと(親孝行のことです。親の言いつけをよく守り、老後には面倒を見ることです。)人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり、人に迷惑をかけたりしてはならないことなど、いつも話されておられます。今日のお金も、自分の物ではないので取るべき理由がないと思ったまでのことです。」そう言って,夜も遅いのに自分の家に向かって歩き始めました。


【徳行】
中江藤樹先生が亡くなって何年もたってからのお話です。一人の武士が小川村の近くを通るついでに、藤樹先生の墓を訪ねようと思いました。畑を耕している農夫がいたので、その武士は農夫に道を聞きました。農夫は自分が案内しようと言って先に立って歩いてくれました。

ところが、途中で農夫は自分の家に立ち寄って着物を着替え、羽織まで着て出てきました。武士は心の中で「自分を敬ってこのようにしたのだろう。」と思っていました。藤樹先生の墓に着いた時、農夫は垣の戸を開けて武士をその中に入らせ、自分は戸の外にひざまずいて拝みました。武士はそこで初めて、先程農夫が着物を着替えたのは藤樹先生を敬うためであったと気が付きました。それで深く感心して、ていねいに藤樹先生のお墓を拝んだということです。

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藤樹先生が熱い思いを込めて人々に語りかけた藤樹書院。
敷地内には名前の由来にもなった藤樹遺愛の藤の老木があります。 

藤樹が四国のある大名に仕官された時のことです。母にそのことを告げて、「ご一緒に参りましょう」といったところ、「私は年寄りなので他国へいって暮らすのは気苦労です。私はここに残って、親戚の者や知った人たちと暮らすので、おまえ一人で行きなさい」といった。藤樹はそのことを告げて士官を断ったが、藩主は許さない。仕方なく一人で赴任した。やがて母が病で倒れたとの知らせが届く。これを理由に再び辞任を求めたが、これも許されなかった。そこで意を決して、狩に出かけたふりをして出奔した。同僚の者が家を訪ねてみると、家財道具類はそのままに、机の上に置手紙があった。「拙者が賜っていたほどの禄であれば、いくらでも優秀な儒学者が集まります。しかし、忠孝の二つを比べてみると、母は拙者より頼むものはありませぬ。よって職を辞し、故郷に帰ります」と記されていた。それを知った君主は、なんと親孝行の息子かと深く感銘し、家財まで捨てて去った藤樹の身では母の養護もままならないだろうと、使者を遣わせて黄金を贈られた。藤樹先生は、それを断って、こう述べられた。「殿様のご厚遇は分にすぎております。私が勝手に帰っただけでも罪が重いのに、その上にまたお手当を受けては、罪を重ねるようなものです」といってかたくなに受け取らなかった。

中江藤樹の門下、熊沢蕃山の弟で共に弟子となった泉仲愛のお話です。親の土地を誰がどれだけ譲り受けるかということで,ある兄弟が激しくげんかをしていました。代官がけんかをやめるよう命令しても全然聞きませんでした。そこで,仲愛がこの兄弟を仲直りさせるよう頼まれました。

仲愛はまずその兄弟を自分の家に呼びました。兄弟は小さな部屋に通されました。仲愛は自分の家来に「主人は急な用事が出来たので,しばらくお待ちください。食事とお風呂は自由に使っても構いません。」とだけ言わせ、その兄弟をずっと待たせておきました。その間、兄弟は憎しみ合っているので,最初何も話しませんでした。けれど,だんだんと幼い日一緒に遊んだ頃のことや両親に大切に育てられたことを思い出しました。ついには兄弟涙を流して,お互いに自分が悪かったと謝りおいおいと泣きました。そこへ仲愛が部屋に入り,一言「本当に喜ばしいことです」と話すと,兄弟は仲良く家に戻りました。

藤樹の名は広まり、多くのの門下が集まりました。のちに陽明学の大家になった熊沢蕃山も、そのひとりでした。蕃山が弟子入りにきたとき、藤樹は、自分は田舎ものの学者にすぎないことを告げて、断りました。でも、蕃山は、ひと晩じゅう外にすわったまま立ち去ろうとせず、ついに藤樹は、その熱心さに心をうたれて入門を許したということです。 蕃山の弟子が大潮平八郎であり、幕末には吉田松陰などが傾倒し、松下村塾で高杉晋作、久坂玄瑞、そして伊藤博文、山縣有朋らに引き継がれていくことになります。己の利欲・慢心を諌め、常に心を磨き、公の為に良いと思うことを断固実行する「知行同一」の精神こそが、欧米の個人主義と唯物主義に染められてしまった今の日本に最も必要な要素なのではないかと感じて止みません。

最後にもう一つ。
藤樹は「人の道」を教えることについてこう語っています。

「家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、子孫の繁昌をもとむるは、足なくて行くことをねがふにひとし」


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